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山口地方裁判所 昭和51年(ワ)122号 判決 1980年1月23日

原告 波野邦彦 外一名

被告 国 外一名

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

原告ら訴訟代理人は「別紙図面イロハニホヘトチリイの各点を直線で結んだ区域の土地が原告波野の所有であることを確認する。同図面ホヌルヲワカヨタレヘホの各点を直線で結んだ区域の土地が原告打道の所有であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因として次のとおりのべた。

一、原告らはそれぞれ請求の趣旨記載の区域の土地(以下原告波野関係の土地を甲区域、原告打道関係の土地を乙区域という)を所有している。ところが被告はこれらの区域がいずれも被告所有の里道であるとして原告らの各所有権を争うものである。

二、原告らの各所有権取得の経過は左のとおりである。

(一)  原告波野について

原告波野は昭和四六年五月二〇日別紙目録1の土地を当時の所有者訴外宇多村恒雄から、また同目録2の土地を当時の所有者訴外末富光尾から、それぞれ買受け、同年六月三日各所有権移転登記を了した。甲区域は右12の土地の一部に属するので、原告波野は右買受けにより甲区域の所有権を取得した。

(二)  原告打道について

原告打道は昭和四六年五月二〇日右訴外末富から同目録3の土地を買受け、同月二一日所有権移転登記を了した。乙区域は右3の土地の一部に属するので、原告打道は右買受けにより乙区域の所有権を取得した。

(三)  仮に甲乙両区域が元来被告所有の里道であつたとすれば、原告らはそれぞれ取得時効を援用する。

(1)  訴外末富において昭和二八年八月六日以降甲区域の一部および乙区域につき、これが同日父文吉の死亡により相続した自己所有の防府市大字上右田字上寺田一四五八番一田八畝二〇歩内畦畔一五歩の一部に属するものとして所有の意思で平穏公然に占有を開始したところ、前記昭和四六年五月二〇日の売買により、右占有区域中の甲区域の一部を含む2の土地を原告波野に、乙区域を含む3の土地を原告打道に、それぞれ売却したので、同日原告両名はそれぞれの区域の占有を承継した。よつて昭和四八年八月六日を以て両名それぞれの区域を時効取得した。

(2)  訴外宇多村において大正五年三月二四日以降甲区域中前記を除くその余の区域につき、これが同日他より買受取得した自己所有の前同所一四五五番田の一部に属するものとして所有の意思で平穏公然に占有を開始したので、昭和二一年三月二四日を以てこれを時効取得した。その後前記昭和四六年五月二〇日の売買により、右その余の区域を含む1の土地を原告波野に売却した。

(3)  甲乙両区域は遅くとも大正初期よりも前から今日まで長年月里道の目的に供されておらず、幅三〇センチ程度の畦畔と西側水田に連なる水田部分とに変形しており、通行可能の里道たる性質外観を失い、公共用物としての形態を全く失つているので、すでに黙示の公用廃止処分があつたと見るべきである。

被告指定代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として次のとおりのべた。

一、別紙目録123の土地につきそれぞれ原告ら主張の売買契約がなされ、各所有権移転登記のなされたことはこれを認める。その余の原告主張事実はすべてこれを争う。

二、甲乙両区域は元来明治初年の官民有区分に際し国の所有と確定された国有里道に該当する。その東側に並んで国有水路が存在する。123の土地は右里道の西側、これに接するまでの区域であつて甲乙両区域を含まない。これらの相互位置関係は公図上も明らかである。

三、右里道に該当する甲乙両区域については黙示の公用廃止処分があつたと見るべきでない。

すなわち国有里道は公共用財産として不特定多数の公衆のため通行の用に供されるもので、他の道路と接属する末端に至るまで連続した形態があつてはじめて機能を果しうるのであるから、公共用財産としての機能形態を喪失し公の目的が害されず維持すべき理由が失われたとするについては、取得時効の対象となる部分のみを局所的にとらえて判断すべきではない。

前記里道は別紙図面表示の市道から北方訴外宇多村、弘中らの所有する一四五五番一の土地、一四六一番の土地に通ずる進入路の役割を果す位置関係にあり、更にその北方の里道に接続し一体となつて公共用財産としての機能を保有するものである。

甲乙両区域について公用廃止処分があつたと見るときは、右進入路としての機能が失われて実際上公の目的を著しく害する結果となる。このようにして両区域については、公共用財産として原状を回復し維持すべき理由と必要性が依然として存在するものである。

立証として原告ら代理人は甲第一乃至六号証、第七号証の一、二を提出し、証人田中充、同末富実、同宇多村タマ子、同徳久重人の尋問を求め、鑑定人石田豊の第一、二回鑑定の結果を援用し、乙号各証の成立はすべて(第四号証の一、二、第六号証については各原本の存在成立とも)これを認めるとのべ、被告代理人は乙第一乃至三号証、第四号証の一、二、第五号証の一乃至三、第六号証を提出し、証人内藤智、同山崎耕右の尋問を求め、前掲石田の第一回鑑定の結果を援用し、甲号各証の成立はすべてこれを認めるとのべた。

理由

一、別紙目録123の土地につきそれぞれ原告ら主張の売買契約がなされ、各所有権移転登記のなされたことは当事者間に争いがない。いずれも成立に争いのない甲第一乃至三号証、乙第一、二号証と証人末富実、同宇多村タマ子の各証言および弁論の全趣旨によれば、これらの土地がそれぞれ右争いのない契約当時までに売主の所有に帰していたことが認められる。

二、しかしながら甲乙両区域が原告ら主張のように123の土地の一部に属するものとは認めることができない。却つて成立に争いのない乙第六号証と後記認定の事実関係に照せば、これら区域は123の土地の東側に接してほぼ南北に走る国有里道の区域に該当するものと推認するに足る。鑑定人石田豊の第一回鑑定結果は乙第六号証と弁論の全趣旨に照せば右推認を左右する証拠とするに足りない。

三、原告ら主張の時効取得の事実について検討する。

前掲甲第一乃至三号証、乙第一、二号証、第六号証、いずれも成立に争いのない甲第七号証の一、二、乙第五号証の一乃至三と証人末富実、同田中充、同内藤智、同徳久重人、同山崎耕右の各証言(内藤および徳久については後記措信しない部分を除く)および弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができ、右内藤および徳久の各証言中この認定に反する部分は右その余の証拠に照してたやすく措信できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(一)  別紙目録23の土地が分筆される以前の一四五八番の田は、別紙図面カヨタレヘトチの各点を経てリ点近くに至るまでの線に接してその西側にあり、1の土地が分筆される以前の一四五五番の田は右の線を北方に延長しリ点、イ点を経て更に北に延びる線に接してその西側にあり、これらの線に接する東側には幅三尺の国有里道が古くより存在し、またこの里道東縁に接して東側には国有水路があり、水路東縁に接して東側には南より北に向けて一四五九番、一四六一番の田が存在した。

右一四五八番の田は北側一四五五番の田よりも低く、両土地の東側の里道は両土地の相互に接する段差の線と交わるあたりで右高低差にほぼ見合う形で北より南に下る形状をなし、里道の東側の水路もこれに対応して同じあたりで幾分落差のある形で南方下流に向つていた。水路の東側一四五九番、一四六一番の田は水路、里道および一四五八番の田の右のような状態との関係では高い位置にあつた。

このような状態の下で水路を流れる水は、増量した際にはあふれて里道表面を洗い一四五八番の田に流入する有様であつた。

(二)  ところで一四五八番の田の所有者は水路との間の里道を国有地として認識すること浅く、また里道の管理体勢も十分でなかつたため、水のあふれて流入する間に里道に損耗を生じても十分な修復措置はとられないまま年月を経過し、しかも同番の田は水の流入の関係もあつて稲作のみならず蓮の栽培にも利用されるうちやがて蓮栽培に専用されるに至り、これらの間に何時しか里道は一四五八番に接する部分およびその北方段差の上の一四五五番の南端附近に接する部分が削られてせばまり、遅くとも昭和八年頃までにはこれらの部分が里道として通行利用するには幅員が不足し地表の模様も一般の通行には適しない状態となつて、里道としての形態を失つた。

(三)  この間にあつて水路東側一四五九番の田の西縁には里道とほぼ同じ幅員の畦があつて、位置の高いことから増水によつて損耗することもなく管理されており、しかも南方一般道路(現況市道)との高低差も里道におけるほどではなく、且つ所有者乃至近隣者においてこれが右同番に属する畦であるか国有里道の一部をなすのかを別段意識しないままであり、かたわら里道自体前記部分がその形態を失つたことから、近隣者らにおいてこの畦を里道同然に利用するに至り、所有者においてもこれに疑問をいだかず異議を唱えることもなしに年月を経た。

(四)  このようにして別紙図面イ点、ロ点あたりで北方からの里道が切断された形となり、それより南に向つては水路東側一四五九番の田の西縁の畦が恰も水路をまたいで里道の延長をなすかのような状態が永きに亘つて継続することとなつた。

(五)  ところで一四五九番からの分筆によつて生じた水路東側一四五九番一の田の所有者においては、本訴係属前より右西縁の畦につき所有権に基づく排他的占有を主張するに至り、すでに従前とは異なり里道北方から南方市道に至る一般公衆の通行には支障のあることが明らかとなつた。

(六)  甲乙両区域は前記里道としての機能を失つた部分に該当するところ、前記争いのない昭和四六年五月二〇日の原告らの買受当時、その西方に接する区域と共に埋立てられて宅地の一部に組入れられた。

以上の事実関係からすれば、甲乙両区域は公共用財産たる国有里道として元来一般公衆の利用に供されていたところ、このうち東側水路に接する細長い部分は水路西縁の堤として、その余は一四五八番の土地と一体化した水田乃至蓮栽培地として利用管理されるに至り、永きに亘つて里道の目的には供されず、公共用財産としての形態機能を失つて久しいものということができる。

しかしながら前掲各証拠によればまた、北方よりイ点、ロ点あたりで中断するまでの区間に原告ら主張の時効起算日当時より引続き里道がその体をなし一般の利用に供されて存在し、元来これが機能を失つた部分につながつて南方市道に至る一貫した里道を形成すべき関係にあるものであることおよび、右中断した状態でありながら公の目的に特段の支障を生じなかつたのは専ら一四五九番の田の西縁を走る畦がその所有者および近隣者等一般人によつて不確定的にもせよ里道と誤認され続け、里道同然の利用に委ねられていたことから市道とのつながりが事実上確保されていたために過ぎないことが明らかである。

右のような場合、右形態機能を失つた部分のみを独立に取上げてその部分を公共用財産として維持すべき理由がなくなつたものとすることは、現況里道として存続している北方部分の利用価値を殆ど失わせることに帰する点において正当でないと解され、形態機能を失つた部分を回復し公共用財産として維持すべき理由は失われないままであつたというべきである。

のみならず、右のように公の目的に事実上支障を生じなかつたのが専ら近接する第三者の私有地が事実上公共用財産に代るものとして利用できたためであつて、当該第三者において利用される区域の自己所有であることを知つて通行利用に異議を唱えれば直ちに公の目的に支障のある状態が顕現するに至るべき関係にあるときは、右第三者が異議を唱えない段階においてもなお、未だ公共用財産を維持すべき理由がなくなつたものとすることはできないと解される。

このようにして甲乙両区域については、公共用財産たる国有里道につき黙示的に公用廃止処分がなされたものと見るべき場合に該当しないものというべく、時効取得の主張はその余の点にふれるまでもなく理由がない。

四、以上の次第で原告らの請求はいずれも理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条第九三条第一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 横畠典夫)

別紙図面及び目録<省略>

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